Vernon Lee (Violet Paget)

生涯

ヴァ―ノン・リーの生涯

  • 誕生から少女時代
    •  ヴァ―ノン・リー(Vernon Lee)は1856年10月14日、フランスのシャトー・サン・レオナール(Chateau St.Leonard)で生まれた。本名はヴァイオレット・パジェット(Violet Paget)。

      Matilda Paget

       父はヘンリー・ファーガスン・パジェット(Henry Ferguson Paget)。母はマチルダ・アダムズ(Matilda Adams)。マチルダは二度目の結婚で、死別した最初の夫リー・ハミルトン(Lee Hamilton)との間の息子ジェイムズ・ユージーン・リー・ハミルトン(James Eugene Lee-Hamilton)をつれての再婚だった。このユージーンはヴァイオレットの父親違いの兄になる。

      少女時代のヴァーノン・リー

       パジェット一家はフランス、スイス、ドイツ、イタリアを転々とした。生まれたのはフランスだが、最初の5年間はドイツで過ごし、フランクフルト、バーデン、キッシンゲン、ヴィースバーデンに滞在した。短期間だが、スイスのリゾート地、トゥーンにも滞在している。とりわけ、幼少期のドイツでの体験がのちのリー文学に大きく影響したと考えられる。リーの伝記作者ピーター・ガンは森とクリスマスツリーがリーにとってドイツを象徴するものだった、としている。
       ヴァイオレットは学校での教育は受けていない。婦人家庭教師(governess)から教育を受けた。また、この頃アメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent)一家と交流があり、とりわけ、画家の母メアリーから強い影響を受けた。
       子供の頃は、アラビアン・ナイトの物語や、妖精物語、伝説、民話などを好む少女であった。また、音楽への関心も強く、オッフェンバッハやグルック、そして18世紀イタリアの音楽を好んだ。
       ヴァイオレットがイギリスを初めて訪問したのは1862年のことである。夏をワイト島で過ごした。
       パジェット一家のヨーロッパ各地を転々とする生活は1873年にフィレンツェに定住するまで続いた。

  • 作家活動の開始
    •  1870年、ヴァイオレットはフランス語で短編 'L'aventures d'une piece de monnaie'をローザンヌの雑誌La Familleに掲載する。このときはMlle V.P.という筆名を使っている。
       1875年から、ヴァーノン・リーの筆名で、主にイタリアの音楽や演劇についてのエッセイを雑誌La Revista Europeaに投稿し始める。このころのエッセイから既に、過去への関心、男女の平等など、後年まで彼女の作品を貫いて現れるテーマが見られる。1877年にはFraser's Magazineにリーのエッセイ'Tuscan Peasant Plays'が掲載され、これがイギリスでの初出版となる。

      Studies of the Eighteenth Century in Italy

       彼女の処女著作はStudies of the Eighteenth Century in Italyで1880年のこと。なお、ヴァーノン・リーが親友となるメアリ・ロビンソンと出会ったのも、この頃、すなわち1878年、フィレンツェにおいてであった。二人の関係は親密なものであったが、メアリの結婚とともに終わることになる。

  • イギリス訪問
    •  ヴァーノン・リーは1881年、ロンドンのメアリ・ロビンソンを訪問するためイギリスに赴く。翌82年には、メアリとともにオックスフォード大学を訪れ、同大学の教授であったウォルター・ペイターとジョン・アディントン・シモンズに面会する。二人はリーの美術論、ルネサンス観に大きな影響を及ぼす。他にも、オスカー・ワイルドやウィリアム・マイケル・ロセッティ、ロバート・ブラウニングらに面会する。このときの経験が、のちの代表作の一つEuphorionに結実する。また、ロンドンで自分と兄ユージーンの本を出版してくれる出版社を探したりしている。

  • 『ミス・ブラウン』の出版
    • Miss Brown

       1884年、長編小説『ミス・ブラウン』が出版される。この小説は実話小説ととられ、様々な実在の人物たちをモデルにしていると推測され(具体的には、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジェイン・モリス、オスカー・ワイルドヘンリー・ジェイムズら。詳しくは「主要作品解説」を参照のこと)、リーは多くの敵をつくることになってしまった。これらの否定的反応から、リーは『ミス・ブラウン』は失敗だったと考えるようになったが、ひるむことはなかった。しかし、1888年に恋人のメアリ・ロビンソンが結婚すると、ヴァーノン・リーは精神的ダメージを受け、健康を損ねる。詳しくはヴァーノン・リーの女性の友人たちの項を参照のこと。同じ年、初期の美術批評の重要作Euphorionを発表している。

  • 幻想短編の発表
    •  1886年、A Phantom Lover: A Fantastic Storyを発表。(のちに'Oke of Okehurst or The Phantom Lover'に改題)こののち、多くの幻想短編を発表していく。1890年には'Oke of Okehurst'を含むHauntingsを発表。
       1887年に友人となるClementia (Kit) Anstruther-Thomsonと出会う。しかし、Mary RobinsonがJames Darmesteterと婚約したため、リーは深刻な精神的ダメージを受ける。翌88年、Maryは結婚。Evelyn Wimbushとともに、健康回復のため、モロッコのTangiersとスペインを訪問。
       1889年、パジェット家はフィレンツェのMaianoにあるVilla IL Palmerinoを借りる。こののち、旅で留守にすることはあっても、ここがリーの終の棲家となる。

  • 家族の死
    •  1892年発表、短編集Vanitas: Polite Storiesが出版される。この本に収録された'Lady Tal'はヘンリー・ジェイムズとの関係にひびを入れる。94年にはウォルター・ペイターが死去。リーに影響を与えた先輩作家との別れが続く。95年に発表されたRenaissance Fancies and Studiesはペイターに捧げられている。同年、父ヘンリー・ファーガソン・パジェットが死去。96年には母マチルダが死去している。97年から友人のKitとともに'psychological aesthetics'の研究結果をContemporary Review誌に発表し始めるが、有人の美術批評家バーナード・ベレンソンとの間に盗用をめぐって裁判での争いになる。
       1898年、兄のユージーンが小説家のAnnie Holdsworthと結婚。1900年にはKitと別れる。

  • 新たな友人たち
    •  1904年、H・G・ウェルズと友人となり、こののちウェルズはリーの本の出版の面倒を見ることになる。同じ年、イーディス・ウォートンで出会っている。

      The Sentimental Traveller

       1905年にはThe Enchanted Woods and Other Essays, 1906年にはThe Spirit of Rome, 1908年にはThe Sentimental Travellerが出版されるなど、旅行記の出版が多くなる。この間、1907年にはエジプトとギリシアに旅行している。
       次に、1909年にはLaurus Nobilis: Chapters on Art and Life, 1912年にはVital LiesBeauty and Uglinessが、1913年にはThe Beautifulが発表されるなど、美学関係の本が多くなる。
       1907年9月、兄ユージーンが死去。

  • 第一次世界大戦
    •  1914年、第一次世界大戦が勃発する。勃発当時、イングランドに滞在していたヴァーノン・リーはイタリアに帰れなくなった。リーは大戦勃発前の1904年ころから、戦争に反対する論文を定期的に発表していた。反戦劇Satan the Wasterでは"war is always or ever the Greatest of All Evils"と書いている。1911年からは平和活動に参加し始める。大戦勃発後は、ドイツに共感するような発言のため、リーはイギリス人に非難される。なお、Satan The Wasterの序文では"the Englishman and the German are both trying to put the responsibility on the enemy; or, briefly, that both of them are victims of war delusion and war superstition, which either disdains facts or uses them solely for its own purposes"と書いている。メアリ・ロビンソン、モーリス・ベアリング、エセル・スマイスら、友人たちもリーから離れていった。1915年、戦争をテーマにした劇The Ballet of the Nations: A Present-Day Moralityを出版。同じ年、Ramsay McDonaldのUnion of Democratic Control(UDC)に参加。UDCでThe Ballet of the Nationsが朗読される。1920年、Satan the Waster: A Philosophical War Trilogyを出版。イタリアに帰国。1921年にはKitが死去している。

  • 晩年
    •  1923年、後期の代表作のひとつThe Handling of Words and Other Studies in Literary Psychologyを出版。翌24年、Kitの著作に自らが序文を付したArt and Manを出版。University of Durhamから文学博士号を授与される。27年、最後の幻想短編集For Maurice: Five Unlikely Storiesを出版。1932年、最後の著作Music and Its Loversを出版。
       晩年のヴァ―ノン・リーは聴力の衰えに悩まされた。1934年、イギリスを訪れるも病気になり、イタリアに帰国。リーはangina pectoris(狭心症)に悩まされていた。1935年2月13日、Il Palmerinoで死去。享年79。彼女の蔵書はThe British Institute of Florenceにのこされた。フィレンツェのAllori墓地に埋葬される。リーの墓碑銘にはJ.C.Powellによる以下のような墓碑銘が刻まれた。

       Numina quae fontes, silvas, loca celsa tenetis
        Nostram animam vestro credimus hospitio

               Vernon Lee
               MCMⅩⅩⅩⅤ

  • 兄ジェイムズ・ユージーン・リー・ハミルトンについて
    • Eugene Lee-Hamilton

       1845~1907年。ヴァイオレットの母マチルダの連れ子で、ヴァイオレットの父親違いの兄。オックスフォード大学オリエル・コレッジで学ぶも、病弱な体が災いして中退。生涯引きこもりがちな生活を送る。母マチルダは病弱な息子を献身的に愛し、そのことがヴァイオレットとマチルダとの関係に影を落としているとの指摘もある。ヴァーノン・リーの伝記作者Vineta Colbyは、ヴァーノン・リーがレズビアンであったことの原因の一つとして、母親の愛情への飢えをあげている。(Vineta Colby, Vernon Lee p.7.)
       ヴァーノン・リーという筆名は、この異父兄からとられている。
      文学者でもあり、Apollo and Marsyas, and Other Poems(詩集)、The Lord of the Dark Red Star(小説)等の著作がある。
       ユージーンの詩は妹の影響を強く受けている、とされるのが一般的である。しかし、Catherine Maxwellは、影響は双方向的であったとし、具体的にはリーの「悪魔の歌声」に対するユージーンの詩'The Mandolin'の影響を指摘している。同じくMaxwellはロマンティックで神経質なユージーンの性格が、リーの短編'Amour Dure'や'A Wicked Voice'の、'hypersensitive'な語り手の主人公の造形に影響しているとみている。ヴィーナスへの関心や、ボードレールスウィンバーンへの拒否感など、二人の文学への嗜好には共通点も多い。
       リーはユージーンの詩Elegyについて、次のように述べている。"The Elegy, fine in parts, completely lacks interest, & there is a great air of pedantry about it."一方、ユージーンはヴァーノン・リーの短編'Dionea'について、次のように手紙に記している。"in your method of telling through allusion you are often bewildering and half your readers won't understand you."
       ヴァーノン・リーはこの病弱な兄の執筆活動に協力させられていた。リーは友人への手紙に次のように書いている。"I am employed on Eugene's article, copying out and doing the fill up work for him, as he is too ill to apply himself much to anything." 兄の存在は時にリーにとって重荷になっていた。
       1898年、ユージーンは小説家のAnnie Holdsworthと結婚。1903年には娘Persis、すなわちリーの姪を生んでいる。(2歳を待たず死亡)
       ユージーンの病気の詳細については不明である。Chronic Fatigue Syndromeであったであろうと考えられている。

  • 母マチルダ・アダムズについて
    • Matilda Adams

       ヴァ―ノン・リーの母マチルダはエドワード・ハムリン・アダムズ(Edward Hamlin Adams)の娘として1815年に,ウェールズのカーマーゼンシャ―(Carmarthenshire)のMiddleton Hallで生まれた。ヴァイオレットの母方の祖父はジャマイカなどの植民地で商売をしており、大きな財をなした。
       マチルダは5フィートにみたない小柄な人物で、音楽を愛し、ピアノを上手に弾いたという。また、'thee'や'thou'という古い言葉を好んで使った。
       マチルダの最初の夫、リー・ハミルトンについては不明なことが多い。しかし、伝記作者ガンは、ハミルトンがマチルダと結婚したのは、マチルダの金が目的であっただろうとしている。同時にガンによれば、マチルダの方は父親の支配から逃れるために彼と結婚したようだ。ヴァーノン・リーは二人の結婚を'deplorable marriage'と述べている。二人の間にはユージーンという一人息子が生まれたが、リー・ハミルトンは1852年に亡くなり、マチルダはイギリスを去り、フランスに移住する。パリでユージーンの家庭教師として訪れたヘンリー・ファーガスン・パジェットと知り合い、結婚し、ヴァイオレットをもうけた。
       ヴァーノン・リーは母マチルダの二回の結婚について、次のように述べている。"Her two husbands bored her and she gave them their liberty after having a child by each."
       母マチルダとヴァーノン・リーの関係は複雑なものであったようだ。マチルダは最初の結婚でもうけた病弱なユージーン(ヴァーノン・リーの異母兄)を愛し、彼に比べ愛されていないとリーは考えていたようだ。Patricia Pulhamは、リーの作品の中に母親の愛情を読み取る論文を多く書いている。リーの作品には母親との関係を暗示するものが少なくなく、母親との関係は、リー文学を読み解く上で重要な鍵になると思われる。
       ガンの伝記のよれば、ヴァーノン・リーは母について次のように語っている。"She could be most charming, was very pretty and most amusing, but a Tyrant."
       また、マチルダは牧師嫌いで教会に反対していた。宗教に懐疑的なことは娘のヴァイオレットにも引き継がれたようだ。ガンは次のように書いている。"She (Matilda) regarded all religions as inventions of ambitious priests." (Gunn, Vernon Lee, P.17.)
       『ことばの美学』の中でも、リーは母について語っている。リーは「母は、見方や方法に「進歩的」と呼んでさしつかえないものが多くあった反面、それに劣らず古風な人であった」とし、書き方の「否定的部分」を母から学んだとしている。リーによれば、マチルダは「西インドの家族の出」で、「ウェールズの片田舎で育った」と書いている。フランス文学ではラシーヌを愛好し、ユークリッドの幾何学に傾倒した。母親の数学好きに対して、リーは数学を苦手としていた。
       さらにリーによれば「母は極度に詩的であり、同時に過度に散文的」で「のべつまくなし皮肉を言っていた」。その一方「言語に絶するほど感傷的であり、理想に走ったり」した。母の判断は「哲学的には抽象的であり、感情的には個人的」で、身内のことになると「子どものように不合理になってしまい、欺かれやすくなってしまう」。(栗原、荒木訳)このように、ヴァーノン・リーは母マチルダを冷静に観察していた。

  • 父ヘンリー・ファーガスン・パジェットについて
    •  ヴァ―ノン・リーの父は、容姿端麗、背は中くらい、青い目に黒い髪の男であった。話し好きでスポーツ、庭いじり、スケッチ、散歩を好むアウトドア派の人物であった。教養高く、知的な人物でもあったが、伝記作者ピーター・ガンは娘ヴァイオレットの知性は父親譲りではない、としている。ヴァイオレットの教育に父親が関わることはほとんどなかった。スポーツ好きで機械いじりの好きな父親は、いかに知的といえどもヴァイオレットの知性とは相いれなかった。
       ヘンリー自身は収入がなく、妻の父親の地所からの収入に依存していた。ヘンリーが家庭を好まず、屋外での活動を好んだ原因の一つも、依存している妻から逃れるためであった、とガンは述べている。

  • ヴァ―ノン・リーの友人たち
    • カルロ・プラッチ(Carlo Placci)
       1861~1941年。イタリアの作家。母はメキシコ人。イタリア滞在中のリーと交流があった。リーと兄のユージーンの文学の讃美者であり、バーナード・ベレンソンとも生涯友人であった。生まれはイギリスで、半分はイギリス人だと思っていたという。旅行家で美術・音楽の愛好家であるなど、リーとの共通点も多い。
       年はそれほど離れていなかったにもかかわらず、リーはプラッチに対して母親のように振る舞い、意見の対立があっても、二人は友情を維持した。文学的野心を抱いていたプラッチに対し、リーはmentor的存在であった。プラッチの小説にUn furto (1892)などがある。
       リーの対話篇BaldwinAltheaにはプラッチがspeakerとして登場するほか、エッセイ集JuveniliaのIntroductionとEpilogueはプラッチに語りかけるという形をとっている。また、リーは家族との関係における悩みや、メアリ・ロビンソンのことについてプラッチに相談しており、プラッチを信頼していたらしい。
       プラッチはEuphorionの頃からリー作品を好意的に評価していた。しかし、バーナード・ベレンソンとリーが盗作の問題で対立した際、プラッチはベレンソンを擁護する立場をとった。そのため、リーとの友情に亀裂が入る。二人の関係は1932年にリーがMusic and Its Loverをプラッチに贈るまで、回復することはなかったが、リーの葬儀にプラッチは参列し、La natione誌上にリーのobituaryを書いた。


      エンリコ・ネンチオーニ(Enrico Nencioni)
       1837~96年。イタリアの批評家。ロバート・ブラウニングを翻訳し、イタリアに紹介した。フィレンツェのヴァーノン・リー邸を訪れるリーの友人であった。二人の関係は終始良好であったが、熱心なカトリック教徒であったネンチオーニはリーの宗教観には強く反対していた。
       文芸批評家として、ネンチオーニはリーの本(Euphorionなど)の批評を書いている。リーは18世紀イタリア音楽の研究の先駆をなした一方、同時代の研究者が18世紀イタリア研究に対して怠慢である、とリーは批判している。ネンチオーニは、リーが同時代の研究者の怠慢を強調しすぎている、とリーを批判しているが、概ねリーの本に好意的な批評をのこしている。彼はリーを"il critico sagace e immaginoso"と賞賛している。
       リーはネンチオーニへの手紙はイタリア語で書いている。
       ネンチオーニは反生体解剖論者であり、その点でもリーと共通していた。


      ジョヴァンニ・ルッフィーニ(Giovanni Ruffini)

      Giovanni Ruffini

       1807~1881年。イタリアの作家・政治活動家。ドニゼッティのDon Pasqualeの台本を書いてことで知られる。青年イタリア(Young Italy)の運動に参加したことで死刑宣告を受け、イギリスに亡命した。
       イギリスで作家活動する際にはJohn Ruffiniと名乗った。代表作に小説Dr.Antonio(1855)がある。リーの兄ユージーンはルッフィーニの小説を高く評価し、二人は親友になった。
       Colbyの伝記によると、ヴァーノンはルッフィーニとの会話からメスタージオに対する関心を高めていったという。リーはチャールズ・バーニーの伝記を購入したり、18世紀イタリア音楽に関する文献を買い求めたりして、代表作「悪魔の歌声」の構想を膨らませていったようだ。ルッフィーニはリーがイタリア文化に親しむのを助け、また、リーに作品の出版についてアドヴァイスをしたりするなど、若いリーに影響を与えた。
       リーの幻想短編「ディオネア」の語り手、アレッサンドロ医師はルッフィーニをモデルにしている。 


      パスクアーレ・ヴィアリ(Pasquale Villari)
       1827~1917年。イタリアの歴史学者、政治家。著作にArchivio Storico Italiano(1856)やStoria di Girolamo Savonarola e de' suoi tempiなどがある。ヴァーノン・リーと面識があった。リーは歴史の情報を得る際、ヴィアリの著作を参考にしていた。


      ラムゼイ・マクドナルド(Ramsay McDonald)

      Ramsay McDonald

       1866~1937年。スコットランド出身のイギリスの政治家。イギリス初の労働党出身の首相。
       非戦論者であり、第一次大戦勃発時には労働党党首を辞任した。その後、3度にわたって首相に就任した。
       1914年に、第一次大戦が始まると、政府に反戦の圧力をかけるために、Union of Democratic Control(UDC)が結成されるが、マクドナルドはそのメンバーであった。反戦主義者であったヴァーノン・リーもまた、この組織に参加している。

  • ヴァーノン・リーの女性の友人たち
    •  ヴァーノン・リーはレズビアンで女性の友人たちに情熱的な愛情を注いだ。重要な友人は以下の通り。


      アニー・メイアー(Annie Meyer)
       1877年から翌年にかけて、何度かフィレンツェを訪問し、ヴァーノン・リーと知り合った。彼女にはJohn Meyerという夫がいたが、リーとの間に友情をはぐくんだ。しかし、1880年までにリーと口論の結果、友情は破綻した。1883年、アニーの死を知ったリーは、アニーの写真を死ぬまでベッドの上に貼り続け、1884年発表のCountess of Albanyをアニーに捧げた。
       1886年発表のBaldwinはBaldwinとAgatha Stuartの対話で成り立っているが、Agathaのモデルはアニーである。(Baldwinはリー自身)Agathaは"that stubborn-looking Scotch girl"と紹介され、"absolute truth"を代弁している。


      アリス・カランダ―(Alice Callandar)
       上述のアニー・メイヤーの姪でヴァーノン・リーの友人。Lady Archibald Campbellの義理の姉妹。小説も物している。ヴィクトリア女王のlady-in-waiting。アニーが死に瀕しているとき、リーはアリスを通じてアニーに面会することを願ったが、アリスは冷たく拒絶したという。
       ピーター・ガンによれば、リーの短編'Lady Tal'の主人公Lady Talはアリスをモデルにしているという。アリスはリーに自作の小説への助言を求めたが、Lady TalがMarionから受けたのと同様の批判をされたという。さらに、Lady Talと死んだ夫との関係も、アリスとその夫の関係を反映していると指摘している。アリスの夫は神経を病んでいた。


      メアリ・ロビンソン(Mary Robinson)
       詩人、エッセイスト。1880年ころ、フィレンツェでヴァーノン・リーと知り合い、恋人になった。1904年8月18日の手紙の中で、リーはロビンソンのことを"the first great...love of my life"として言及している。
       攻撃的な性格のリーとは対照的な性格で、二人の間にはイデオロギー的対立はなかったという。二人の友情は、メアリが結婚するまで続いた。
      1881年発表のヴァ―ノン・リーのエッセイ集Belcaroはメアリに捧げられている。
       メアリはリーの印象を次のように書いている。"She had soft blonde hair, benignant grey-green eyes, which gleamed through a a pair of huge, round eighteenth-century goggles; I can see the long column of her throat, the humorous, delicate, irregular features which made up such an eloquent and eager face; and escpecially I see the slender hands, with the fragile rétroussé fingers issuing from the starched cuffs of her tailor-gown. She looked at once audacious, refined, argumentative and shy. This young lady was Miss Paget (Vernon Lee)." (Peter Gunn, Vernon Lee, P.77.)
       メアリ自身文才があり、最初に出版されたA Handful of Honeysuckleにはアンドリュー・ラングが好意的な評価をしている。1883年にはエミリ・ブロンテの伝記(Emily Bronte, 1883)を出版している。1880年代には多くの詩集を発表しており、The New Arcadia(1884), An Italian Garden and Other Lyrics(1886), Songs, Ballads, and a Garden Play(1888)らがある。歴史エッセイ集にThe End of the Middle Age (1889)がある。エッセイ集Genius Lociの中で、リーはMaryのPhilippe Le Catを"splendid"と評している。2巻本の小説Arden(1883)については、Vineta Colbyは失敗作であるとしている。
       メアリは1888年に結婚する。メアリ結婚の知らせはリーに深刻な打撃を与え、その後2年にわたり、リーは健康を損ねた。メアリの家族はこの結婚に反対し、リーも結婚を思いとどまらせようとしたが無駄だった。リーが憔悴していることにメアリも心を痛めた。
       メアリと結婚したのはフランス人の言語学者でCollege de Franceの教授James Darmesteterであった。彼は古代ペルシア語の権威であった。Darmesteterはメアリよりも8つ年上で、メアリのItalian Gardenにほれ込み、フランス語に翻訳、1888年に出版している。その過程でメアリと親密になり、1887年に婚約した。リーはDarmesteterのことを"very good, no doubt, and very learned"と評している。同時に、"he is dull, totally inartistic"とも述べ、Darmesteterが自分とメアリの関係を、ジョージ・エリオットとその夫Lewisになぞらえていることも批判している。


      エイミー・レヴィ(Amy Levy)
       ユダヤ人の詩人・小説家。1885年にフィレンツェのヴァ―ノン・リー邸を訪れている。'To Vernon Lee'という詩も残している。ヴァ―ノン・リーに恋していたらしいが、当時リーにはメアリ・ロビンソンという恋人がおり、片思いに終わったらしい。1889年に自殺している。

      ’To Vernon Lee'
       On Bellosguardo, when the year was young,
       We wandered seeking for the daffodil
       And dark anemone, whose purples fill
       The peasant's plot, between the corn-shoots sprung.

       Over the grey, low wall the olive flung
       Her deeper greyness; far off, hill on hill
       Sloped to the sky, which, pearly-pale and still,
       Above the large and luminous landscape hung.

       A snowy blackthorn flowered beyond my reach;
       You broke a branch and gave it to me there;
       I found for you a scarlet blossom rare.
       Thereby ran on of Art and Life our speech;
       And of the gifts the gods had given to each―
       Hope unto you, and unto me Despair.


      クレメンティナ・キャロライン・アンストルサー・トムスン(Clementina Caroline Anstruther-Thomson)

      portrait by John Singer Sargent

       1857~1921年。スコットランド人。通称キット(Kit)。小柄でやせ形のリーに対して、大柄で活動的で、女性的なメアリ・ロビンソンとは対照的な女性であった。逆に、ヴァーノン・リーはキットがアニー・メイアーに似ているのに驚いたという。キットの第一印象をリーは次のように記している。"a semi-painter, semi-sculptor, handsome creature, who is, or was, a great friend of Mrs. Callander's, with whom I am expected to make great friends." さらに、リーはキットについて次のように述べている。"This girl has a very great charm and goodness and intelligence, and rather odd, half fashionable and half ramshackle manners, something simple and childish and at the same time grande dame."
       ヴァーノン・リーの伝記を書いているピーター・ガンはリーとキットの関係について次のように述べている。"she (kit) had been her (Lee's) closest companion and collaborator for more than ten years. But her nature was too dissimilar from Vernon Lee's. She was perhaps more than just a fine-looking woman; she was an altruist, with a wide variety of interests, extending from physical exercise to the fine arts; but no single activity could long sustain her interest."(Peter Gunn, Vernon Lee, P.165.)
       1887年8月、ヴァーノン・リーはスコットランドにあるキットの家に滞在している。そのとき、メアリ・ロビンソンが翌1888年に結婚すると告げられた。ヴァーノン・リーは体調を崩し、キットはメアリ・ロビンソンの代わりを努めようとするようになる。1888年にリーが書いた手紙には頻繁にキットの名前がでてくる。トムソンとリーの関係は、メアリとリーの関係とは対照的なものであった。すなわち、メアリとの関係においてはリーがイニシアティブをとっていたが、トムスンとの関係においてはそれが逆転した。
       リーは自分の財産をキットに遺すことにした。しかし、キットが病気の友人Mrs. Christine Headの看病をすることをリーとの関係よりも優先することにしたときには、リーは大いに失望した。
       キットの死後、3年たってリーは公にキットが自分の文学的弟子であったことを認めた。キットの著作Art and Man: Essays and Fragmentsはリーの指導のもとで書かれ、この本にリーは長いintroductionを寄せている。
       対話形式をとったヴァーノン・リーのエッセイ集Altheaの登場人物Altheaはキットをモデルにしていると考えられている。
       美術エッセイ集Beauty and Uglinessはリーとキットの共著である。しかし、この著作の中の主張が、バーナード・ベレンソンに剽窃であると告訴されることになる。この事件を機に、二人はしだいに疎遠になり始め、1904年になるとそれが永続的なものになる。


      アイリーン・クーパー・ウィリス(Irene Cooper Willis)
       ヴァーノン・リーと四半世紀の付き合いのあった親友。リーの人柄について様々な証言を残している。彼女の証言によれば、リーは自分のことを"I am hard. I am cold."と語ったという。ウィリスはリーのMusic and Its Loversの執筆に協力もしている。リーはウィリスを自分の遺言執行人に指名し、彼女宛ての書簡で次のようにウィリスに書いている。"I absolutely prohibit any biography of me. My life is my own and I leave that to nobody."
       Burdett Gardnerによれば、ウィリスは次のように述べていたという。"Vernon Lee was homosexual but she never faced up to sexual facts. She was perfectly pure....She had a whole series of passions for women, but they were all perfectly correct. Physical contact she shunned."


      エセル・メアリー・スマイス(Ethel Mary Smyth)

      Ethel Mary Smyth

       1858~1944年。イギリスの歌手、作曲家、エッセイスト、女権活動家。ヴァーノン・リーの友人。婦人参政権運動のアンセム'Shoulder to Shoulder'を作曲した。その活動ゆえに、二度投獄されている。
       スミスはリーと他の女性関係をcultesと呼び、1900年、リーがキットと別れた後に、リーの女性関係について次のように書いている。
       
       Myself, I believe the tragedy of her (Lee's) life was that without knowing it she loved the cultes humanly and with passion; but being the stateliest, chastest, of beings, she refused to face the fact, or indulge in the most innocent demonstrations of affection, preferring to create a fiction that these friends were merely intellectual necessities. (Gunn, Vernon Lee, P.167)


      ヘレン・ツィマーン(Helen Zimmern)
       1846~1934年。ドイツ生まれの作家・翻訳家。ヴァーノン・リーは1881年のイギリス訪問の際にロンドンで彼女に会い、長年にわたる友人になった。数か国語に通じていた点など、リーとツィマーンには共通点が多い。ショーペンハウエルやレッシングの伝記を書いたり、レッシングの『ラオコーン』やニーチェの『善悪の彼岸』を英訳したりしている。これらの本はリーにも大きな影響を与えていると思われる。


      マリー・スティルマン(Marie Stillman)
       旧姓Spartoli。夫はウィリアム・ジェイムズ・スティルマン(William James Stillman、1828~1901)。ウィリアムはアメリカ人のジャーナリスト、作家、写真家で、画家を目指したがジャーナリズムに転向。第一次世界大戦の取材に従事した。マリーはダンテ・ロセッティの絵のモデルをつとめてもいる。
       共通の友人であったアニー・メイヤーを通じて、ヴァーノン・リーはスティルマン夫妻に1878年ころ、フィレンツェで会い、親交を結ぶ。マリーはリーの長編小説Miss Brownが物議を醸すことを予測して、次のように手紙に書いている。"I am sure Miss Brown will cause you many 'dispiaceri' and altho' I know you love polemics and are indifferent to criticism I feel that you have done yourself great injustice and you will one day regret this work."
       一方、フレデリック・レイトンの肖像画で'Veronica Veronese'としてモデルをつとめたマリーについて、リーは"a vile creature, with goitry, throat, red hair and German housemaid sentiment"と書いている。


      ヘンリエッタ・カミラ・ジャクソン・ジェンキン
      (Henrietta Camilla Jackson Jenkin)
       1807頃~1885年。ジャクソンは旧姓。ジャマイカ生まれの小説家でパジェット家の友人。チャールズ・ジェンキン(1881~1885)と結婚。パリやジェノアで過ごしたのち、エディンバラに移住する。主な作品にWedlock (1841), The Smiths (1843), Lost and Won, or the Love Tested (1846), Cousin Stella, or, Conflict (1859), Who Breaks, Pays (1861)などがある。
       リーがジェンキンの作品中最も好んだのはOnce and Again (1865)でパリを舞台とした小説である。パリでジェンキンに会ったリーは、彼女のことを"rather eccentric character with a dramatic personality and a lively spirit"と表現している。(Selected Letters of Vernon Lee, Volume 1, P.xxxix.)
       ジェンキンはリーの作家になるという意思を応援し、リーの本の出版社を探したりしている。若い頃のリーがジェンキンに宛てた書簡が多数遺されている。


      メアリー・ベレンソン(Mary Berenson)
       ヴァーノン・リーの友人で、のちに裁判で争うことになるバーナード・ベレンソンの妻。旧姓コステロ(Mary Smith Costelloe)。リーのMiss Brownが出版されたとき、オスカー・ワイルドとともにフィレンツェのリー邸を訪れている。ベレンソンとの結婚前からMary Loganのペンネイムでイタリア美術の批評活動をしていた。メアリーはリーを尊敬し、夫とリーが裁判で争うことになったとき、和解させようと努力した。


      マリ・シェルパッハ(Marie Schülpach)
       ヴァーノン・リーの子供の頃の家庭教師。具体的には1866年から9年にかけて、パジェット家がThunに住んでいたころ、リーの家庭教師を務め、リーがその才能を見せ始めたのもこの時期である。リーはこの若い彼女を家庭教師の中でも最も愛した。二人は一緒にゲーテやグリム、シラーを読み、モーツァルトやバッハをピアノでひいた。
       リーは'In Praise of Governesses'というエッセイを書いており、そこで家庭教師について"it is to our German governesses that we owe the power of understanding Germany, more than to German literature"(Hortus Vitae, PP.19~20.)と述べ、自身の幼少期におけるドイツ理解において家庭教師が果たした重要性を強調している。中でもシェルパッハについては次のように述べている。"But best of all, dearest, far above all the others, and quite different, Marie. S., charming enthusiastic young schoolmistress in that little town of pepper-pot towers and covered bridges, you I have found again: I shall soon see your eyes and hear your voice, quite unchanged, I am certain."(Hortus Vitae, P.21.) さらに、リーは"our spiritual foster mothers who put a few drop of the milk of German kindness, of German simplicity and quaintness and romance, between our lips when we were children"(Hortus Vitae, P.22.)とも書いている。


      モナ・タイラー(Mona Taylor)
       ヴァーノン・リーやキットの友人。リーは多くの手紙をタイラーに書いていて、心情を吐露するような内容のものもあり、リーは彼女を信頼していたようだ。アン・メイヤーらの女友達との関係における悩みをタイラーに相談していた。また、病気がちなタイラーをキットは看病していた。


      ニッキ―・マリアノ(Nicky Mariano)
       1887~1968年。バーナード・ベレンソンの助手として知られる女性で、ヴァーノン・リーとも親交があった。彼女はリーを中心とした"several manly-looking women"に会ったときのことを次のように記している。"Her (Lee's) face in spite of its snout-like ugliness was fascinatingly witty and intelligent. Somebody told me that her name was Violet Paget and that she wrote books as 'Vernon Lee.'" (Vineta Colby, Vernon Lee, P.175.)


      イ―ヴリン・ウィンブッシュ(Evelyn Wimbush)
       ヴァーノン・リーの友人で、リーと一緒にスペインを旅したり、その費用を負担したりしている。リーはウィンブッシュの愛情に戸惑うほどで、Tangierへの旅行の際は自分で費用を出している。
       バーナード・ベレンソンは彼女のことを"Oscar a Rebours"と呼んでいる。リーは彼女に対して冷たかったが、ウィンブッシュはリーの忠実な友人であり続けた。ウィンブッシュはリーに次のような手紙を書いている。"You make me care for you, for I truly care for what you give as ideals of thought and life, but not in a cold intellectual way. You make me alive and warm and stir the best part of me....I know you like me to look at everything from a more intellectual point of view." (Vineta Colby, Vernon Lee, PP.175~76.)


      オトライン・モレル(Ottoline Morrell, Ottoline Cavendish-Bentinck)
       1873~1948年。Philip Morrellと結婚し、Lady Morrellと呼ばれる。芸術家、文学者、知識人と広く交流している。ヴァーノン・リーとも友人で、イタリアのリー邸を訪れたことがある。モレルはリーが男物の服を着たり、人前で煙草を吸ったりするのに驚いている。リーはキットが果たした役割をモレルにも期待したが、モレルはそれを拒否した。しかし、二人の友情は続き、戦争中はGarsingtonにあるモレル邸をリーはしばしば訪れている。そこでリットン・ストレイチーやバートランド・ラッセルと会っているが、彼らはリーを嫌った。
       モレルの夫フィリップは第1次大戦時、兵役を拒否して監獄行きになっている。反戦論者という点においてもリーとモレルは共通していた。


      メアリー・ポンソンビー(Mary Ponsonby)
       ビクトリア女王の秘書だったヘンリー・ポンソンビー(Sir Henry Ponsonby, 1825~1895)の妻。芸術の愛好家にして読書家でもあり、Girton College創設者の一人。ジョージ・エリオットの友人でもあった。
       ヴァーノン・リーとはフィレンツェで初めて会い、芸術に造詣が深いリーの賛美者になった。リーについて、彼女は次のように語っている。"She says excellent things à batons rompus, but the wealth of her ideas when she develops a theory makes her, not con-fused, but so elaborate as to be difficult to follow." また、リーの本については"Let me tell you the deep pleasure Euphorion has given me, but do you know your powers of imagination almost frighten me....I have just begun Baldwin and have to re-read Miss Brown." (Vineta Colby, Vernon Lee, PP.180~181.)


      オーギュスティン・ビュルトAugustine Bulteau
       1860~1922年。フランスの女性大衆小説家・ジャーナリスト。友人たちにはTocheと呼ばれていて、女友達が集まるサロンを開いていた。彼女は取り巻きの女性たちを"Mes Vampyres"と呼んでいた。Jacques Vontadeのペンネームでイギリスやイギリス人に関するエッセイを執筆している。最も有名な作品はL’âme anglais(1910)で、英訳されている。
       1904年ごろ、ヴァーノン・リーと親交を結ぶ。ビュルトは恋愛問題で落ち込んだリーを慰めたりしている。リーはビュルトからsexualな関係を強要されることはないと確信していたようだ。リーは次のように書いている。"Her (Bulteau's) need of me, which is purely intellectual and moral, is the best part of her, as distinguished from her habit of domination and the not very justifiable means she employs to that end."
       第1次世界大戦が始まり、リーがドイツを擁護するような発言をし、H・G・ウェルズNation誌上で論争になったとき、フランス人であるビュルトは激しくリーを批判した。


      ベラ・ダフィ(Bella Duffy)
       アイルランド人の医者の娘。美しく聡明な女性であったようでスタール夫人についての論文を執筆したりしている。その他に、The Tuscan Republic (1893)などの著作がある。
       ヴァーノン・リーとは1880年にフィレンツェで初めて会っている。リーがイギリスを訪れた際には、ケンジントンにあったダフィの家に滞在している。ダフィがドイツ人Richard SemonのMnemic Psychologyを英訳した時は、リーが長文のintroductionを書いている。第1次大戦後、経済的に困窮していたダフィをヴァーノン・リーは援助している。また、リーは1925年に出版された自著Proteus, or the Future of the Intelligenceをダフィに捧げている。1925年にダフィが亡くなったときには、リーは相当なショックを受けた。

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